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#1自動車評論家という人たちがいる。

自動車評論家という人たちがいる。自動車雑誌編集者という人たちがいる。
筆者もかつて某自動車雑誌編集長をしていたので、一言申しあげておきたい。
自動車雑誌に登場する編集者や自動車評論家、ライターの記事は玉石混合である。
玉は良いが、石は目を覆いたくなるような酷い物も多数存在する。

だから自動車雑誌は疑いながら読み進めて欲しい。
日本のマスコミレベルは電波媒体も含めそのマスコミ意識もモラルも低レベルと言わざるを得ないが、自動車雑誌業界はそれ以下と言っても過言ではない。
自動車雑誌の編集者は特に何も資格がなくてもできる職業である。
信じられないと思うが実際自動車雑誌編集者で自動車運転免許証すら持っていない人もいる。
だが自動車雑誌編集者として一番大事なことは正しい報道をすることもそうなのだが、その自動車雑誌の読者と同じ、いや、それ以上にクルマが好きだということだ。

驚いたことにほとんどクルマに興味がない、あるいは特定のクルマにしか興味がないという自動車雑誌編集者が現在我が国には一定数存在する。
その中にはクルマの構造や物理的特性すらまったく理解していない輩もいる。専門用語も知らないか間違って理解している。そんな輩でも誤字脱字をチェックしたり、執筆者に原稿を催促することくらいはできるので、毎月編集会議に出て読者に対して上から目線で担当ページを取材して本を作っているのだ。安い給料もらうためだけに。

一方、自動車評論家という職業も国家資格もなければ資格制限もないので自動車運転免許証さえあれば誰でも明日からなれる。
まあ、それで食って行けるかどうかはまた別の話ではあるが。
工業製品としての自動車、販売実態や社会傾向あるいは自動車文化までをよく理解している自動車評論家もいるが、ほとんど理解できていない方も我が国には一定数存在する。

一番掬いようがないのが過去の他人の記事をコピーする輩。
そのコピーした元記事が間違っていれば間違いを拡散してしまう。だから過去には存在しないモデルの試乗記があったりエンジンの搭載位置や気筒数が違う記事があったりもう間違いというより何かのゲームかと思うような記事も横行した。

もしも、残念な自動車評論家が、たった一時間程度試乗しただけのクルマの試乗記を、編集者からの催促に追われ、広報資料と首っ引きで書きなぐった原稿があったら、それはまっとうな記事と呼べるであろうか。

書きなぐった自動車評論家は書き終わった時点で仕事終了!
その後、編集者が雑誌にして行くわけだが、そのような残念な原稿を簡単な校閲だけでそのまま入稿する残念な編集者もいる。
編集者も入稿したら仕事終了!で、結局は残念なまま印刷され、製本されて書店に並ぶのである。
そのような過程を経た残念な記事が載っている雑誌があったとしたら、馬鹿を見るのは他でもない読者である。自分のお金を出して本を買ってその記事がいい加減だったら踏んだり蹴ったりである。

もちろん読者も賢明な方は信用できる記事かどうかを判断しているので、鵜呑みにはしないだろうが、それが当たり前のように世に出ていることが悲しい。
まあ、いろいろな雑誌のいろいろな記事にどれだけの価値があるのか。筆者はそれを批判する立場にはないから、ハッキリ言わないが玉石混合であることは間違いない。
筆者は玉だとはとても言えないが、そのような雑誌界のいやな面をたくさん知っているからこそ読者のみなさまに損をさせないことを常に念頭に置いている。

大昔、筆者が某自動車雑誌編集長だった頃、泊まり込みの表紙撮影で毎回、故・但馬治カメラマンとふたりで飲みながら話していたのは、自動車雑誌の記事で多かった、クルマのどうでも良いような欠点?を見つけて親の敵とばかり辛辣な原稿を書く残念な評論家の試乗記なんか報道も記事でもない。

そうではなく、そのクルマを企画した人、設計した人、デザインした人、工場で製作した人、販売している人、そして何よりも身銭を切ってオーナーになる人が、そのクルマに託した思いを取材するべきだと。そしてそのクルマの本当の存在価値を記事にする。
これこそが本当の報道だよな!ということだった。

自分で買ってもいない他人のクルマやその楽しみ方を、賞賛は出来たとしても批判は出来ないということだ。
最後に巨匠・但馬治の名言をここに書き記すことにする。

「自分のものでもないクルマを批評するのは、人の女房を品定めするのと同じだよな。失礼にもほどがある」

自動車評論家という人たちがいる。

◆ ライター紹介

明嵐 正彦(めあらし まさひこ)

かつて新聞記者、某自動車雑誌編集長、数年前までスーパーGTレースで監督をしていたという変わった経歴を持ちいくつかの業界では有名人。今はセミリタイヤして自転車徘徊を趣味としている。

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